僕の前に道はある 僕の後ろに轍が出来る

元サイクリストが綴る自転車や散歩を中心としたブログです。

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美濃路を歩く(2)

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前回の終点に忠実に戻り、PM10:10にスタート。スカっと晴れた快晴の体育の日である。今回の起点から道がやや細くなり、古い町並みが残っているわけではないが、商店や民家の入り混じった生活の匂いのする旧街道らしい道になる。

名古屋市西部を中心とする地域に残っている「屋根神」さまがこの道沿いにも何ヶ所か見受けられる。(写真上)
防火の神様である秋葉神社、それから地元の津島神社と熱田神宮をセットで祀ってある祠が、民家の屋根の上にある。これは、町内で交替でお供え物をしたりして今も残っている信仰である。私の実家の近くにも存在し、たまに当番が回ってくるらしい。

家の立替で撤去されたり、独立した祠として移動されたりするケースもあるが、年々その数は少なくなりつつある。最も残っているのが、四間道界隈と美濃路沿いのこの辺りである。

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庄内川を渡る枇杷島橋(写真上)を渡ると、ここから先は清須市になる。つい最近までは西春日井郡西枇杷島町であった。2000年9月の東海豪雨では、庄内川の堤防が決壊し、1m以上も浸水する箇所もあり、前回述べた「小田井人足」の話が立証されたかのような出来事であった。
さらにもう一箇所の比良という場所はもっと凄い。この地域には、広い緑地帯があり、庄内川の水が増水した際、堤防の無い洗堰の部分から、比良地区の北側にある新川までこの緑地帯を通って水を回すという粗っぽい仕組みが設けられている。今も昔も、行政はどこかを、何かを犠牲にせざるを得ない現実がある。

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枇杷島橋を渡ると、町並みはさらにローカル色を増してくる。古い町並みが多くなり、昔ながらの商店が軒を並べている。珍しい三階立ての木造家屋もある。(写真上)

小さな商店が軒並み並んでおり、その種類もさまざまである。タネ屋、タオル屋、傘屋だったか、よく覚えていないが、今も商売が成り立つとは思えないような店が並ぶが、往時の繁栄が偲ばれる。

この辺りの地名は、問屋町と記されているが、その所以は、かつて
この辺りには、江戸時代初期に開かれた青果市場があったことからだそうだ。

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問屋記念館という無料の資料館がある。(写真上)説明によれば、かつてここは江戸の神田、大阪の天満と並ぶ日本三大市場と呼ばれていたらしいが、他の2箇所の現在と比べておよそ信じがたい長閑な風景である。

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ちょっと奥まったところに二川湯(写真上)という銭湯がひっそりと残っていた。今から10年くらい前に実はこの銭湯に入ったことがある。
まるで昭和40年代位にタイムスリップしたような趣のある、薄暗い裸電球が似合うような感じで、洗い場の真ん中に湯船のある珍しい配置で、湯がかなり熱かったことを何故か覚えている。

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こんな感じの格子戸のある木造家屋がところどころ残っている。(写真上)いかにも旧街道という雰囲気である。

この辺りは、清須市であるが、最近まで枇杷島町、新川町、清洲町という小さな町に分かれていたが、平成の大合併で1つになった。
合併のおりには、ネーミングで揉めたことを勝手に予想する。ネームバリューのある清洲をそのまま市にするのを避け、新川町の地名である須ヶ口の須を入れたわけだが、市場の歴史を持つ枇杷島の名前が残らなかったことに枇杷島町民が拘らなかったはずはあるまい。もともとこの辺りの町は大きな工場が多く、財政が豊かなことで知られていたが、この不景気と国策には勝てなかったということなんだろうか。

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レトロな商店街をさらに進むと、新川を渡る。(写真上)新川は、一級河川であるが、江戸時代に庄内川の水を逃がすために開削された人口河川である。
新川を渡ると、須ヶ口の町に入る。須ヶ口は、桶狭間の戦いで戦勝した信長が、今川義元の首を晒した塚の跡があるという話を聞いたことがある。今は民家の敷地内になっているそうなので見ることはできない。

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名鉄須ヶ口駅への分岐になっている交差点近くにある食堂で昼食を取る。なぜか屋号が「あつたや」である。もしかすると、美濃路の基点である熱田と関係があるのか? この辺りは商店街の風体を遺しているが食堂が全く無いので、けっこう混んでいた。

街外れにある須ヶ口一里塚跡(写真上)は、跡形もなく小さな水路の脇に道標だけが立っていた。

名鉄津島線の踏切りを渡り、さらに直進する。さらに道なりに進み、道が少し広がった辺りで名鉄名古屋本線の鉄橋をくぐる。この辺りは、川と鉄道が交差している場所であり、街が分断されていて広い道路ができにくい場所である。そのためか名古屋市にほど近いにも関わらず、長閑な風景が広がっている。

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旧清洲町の市街に入り、暫く歩くと、ひときわ目立つ旧家がある。(写真上)改築中のようで、以前に通りかかった時とは違ってまるで資料館のような整然とした造りになっていた。この家の前には、五条川に架かる「長者橋」という橋が架かっており、昔の栄華を偲ばせる佇まいである。その隣に、TVのCMでよく見る「清洲城鬼殺し」で知られる清洲桜酒造の本社がある。

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清洲といえば清洲城であるが、以前建てられたばかりの時に出掛けたことがある。展示物が全く何もなく、ただ不自然に派手な赤い城が建っているだけで興ざめした記憶がある。当時の清洲城は、天守閣など無かったらしいから当然だろう。
したがって清洲城は目もくれず、道なりに五条川を渡り、清涼寺へ。美濃路はこの寺の前で右折する。
ここは高札場のある「札の辻」と呼ばれ清洲の町の中心地だったそうだ。

名古屋城が築城された時、この町の有力な町人は一斉に名古屋に転居させられることになり、名古屋商人の発祥となった。その大移動のことは「清洲越し」と呼ばれていることは有名である。
これ以降、清洲は尾張の首都から場末、とまではいかないものの、単なる田舎町になった。

「札の辻」の先には、清洲宿本陣跡がある。本陣跡よりも、その隣にあるレトロな病院(写真上)の建物のほうがどう見ても目に付く。まだ現役なのだろうか。
その隣には、立派な邸宅があるが、ここは元名古屋鉄道社長であり、名古屋財界の重鎮であった竹田氏の本宅である。元脇本陣のあった場所らしい。

この先は見るべきものもあまり無い。単調な旧街道の静かな町並みを歩く。車はめっきり少なくなりのんびり歩くにはよい道だ。
途中、総見院にも寄ってみた。
ここは信長の菩提寺らしいが、清洲越しで名古屋の大須に移されてしまって寂れたらしい。信長の「焼兜」があるらしいが見せている訳でもない。

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稲沢市に入ったころ、「長光寺」というちょっと大きな寺がある。入口の楼門には仁王像があり、この辺りの地名にもなっている六角堂がある。(写真上)

この先には、岐阜街道との分岐点である「四ッ家の追分」があり、ちょっと疲れてきたので、その先にあるパールシティーというショッピングセンターで休憩、名鉄奥田駅から名古屋に引き返した。

体育の日という日柄のせいか、こんな地味な場所を歩いているのは熟年ウォーカーすら数少なかったが、いい天気に恵まれいい汗をかいた一日だった。
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